東京都北多摩郡田無町(現、西東京市)は昭和15年に、東京・牛込から疎開して以来、20年間暮らした想い出の残る故郷の町です。高田馬場から西武鉄道で1時間強もかかる田舎町でしたが、疎開先がなぜ田無になったのか定かな理由は分かりません、多分23歳上の長兄が中島飛行機の技手をしていた関係だと思っています。安全なはずの疎開先が今考えてみると、中島飛行機、正田飛行機、三鷹航空、石川島重工、シチズン等の軍事工場に囲まれたとても危険な地域だったのでした。東京への空爆が始まると各工場がB29爆撃機の標的になり、その流れ弾(1トン爆弾)が工員住宅街の周囲に沢山落ちて来て恐ろしい思いを何度も体験し、本当に無益な戦争をしたものだと憤りが蘇えります。戦死、事故、病で5人の家族を失いました。50年ぶりに訪れた懐かしい神社でよぎるのは祭りや縁日の楽しかった想い出より家族の事でした。 石段、石垣に関しては説明板の絶妙な調和は無知の為に良く理解出来ません。
田無神社 由緒記。
参道。一の鳥居の後ろに狛犬見当たらず。 二の鳥居。にも狛犬が居ません?。
naohio tajima
疎開先が危険な場所だったというのは、私も経験しています。東京に出てきて、最初に住んだのは新井薬師だったのですが、都内は危ないと言うことで国分寺に移りました。これも、「日本航空補機」という父が工場長をしていた軍需工場の近くだったのです。中島飛行機などにオイルの浄化装置などを納めていました。
直接的な爆撃は受けなかったのですが、最後は焼夷弾が風で流れて、住宅地のほうに落ちました。私たちはセーフでしたが、母方の祖父は大やけどで、命長らえたのが不思議だと言われました。ほんとうに、戦争はこりごりですね。・・・石垣の調和というのは、もしかすると、セメントや漆喰を使わず、石を配置して組み立てたことを言っているのかも知れませんね。今は補修工事でコンクリートを入れていると思いますが。
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